茨田北中の校長は問題発言をしたのか

大阪市立茨田北中学校の発言が「波紋を呼んでいる」とされている。政治家の上げ足とり報道と同様に、大手メディアが発言の一部を切り取って騒ぎ、煽る方がよっぽど「波紋を呼ぶ」行為のはずだが。

兎も角、渦中の人となってしまった校長のスピーチが同校のサイトに掲載されていたので紹介しよう。

 

平成28年3月12日(土)

 平成28年2月29日(月)の朝礼講話 [要旨]は以下です。
全校揃った最後の集会になります。
今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを二人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。
 なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。
 「女性が、こどもを二人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それ程価値のあることなのです。
 もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。
 次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。
 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。
 子育てをしたら、それで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。
 やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。以上です。

 

本文掲載元

大阪市立茨田北中学校のトップページ

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女性のみが成し得る「子を産む」事、また、夫婦で協力して子育てをすることは、既存の価値観や働き方を変えてでも守る価値のある尊い行為である。また、諸々の事情で子を産む事が叶わない人でも、子育てという素晴らしい行為に参加できると。そんでもって、何をするにしても学力と学習の基礎が大切だから、今はしっかり学べと。

僕の頭では何が悪いのか全く理解できない。公人が発言してはならぬ事というのはどの辺を指すのだろう?

新聞やテレビでは、知識人達が「多様な主義や生活様式を否定する発言だ」としているが、それは拡大解釈が過ぎる。「鳥や蝶は空を飛ぶものだ」という発言に対して「羽根があるから飛ばなくてはいけないのか。木や花に止まる自由を否定している」なんていう屁理屈と同じだ。

長として発言するならば言葉の選び方は慎重であるべきだが、一語一句全ての言葉に注意していたら、言い訳がましいか説明臭くなり過ぎて本質が埋もれてしまう。だからギリギリのところで勝負をすることになる。それを承知したうえで、本質を理解するよう努めるのが聞き手のマナーであるはず。言葉尻をとらえ、論じようとする行為は単なる言いがかりでしかない。 

 

また、市教育委員会は公立校の職員が私見を述べた事を問題視し、何らかの処分を下すそうだが、その根拠は何だというのか。検証はしたのだろうか。「出産」「子育て」という言葉や、「人権」が絡みそうな話題に過剰反応する連中とマスコミに「配慮」をしただけではないのか。

 

学生時代に多様な価値観に触れる事、それについて思考を巡らす事、敬意を持つこと、意見を交わす事は、対人技術や社会性、論理的思考力を養う上でとても重要だ。

親は、子があまりに極端な価値観で凝り固まらないように注意を払いつつ、他者の価値観を認め、敬意をもって受入れたうえで自身の意見を持ち、磨き続けるよう指導する。学校はそれを実践する場であり、教師は監督官であるはずだ。

しかし、今回の騒動が拡大すれば、教師達は今まで以上に萎縮し、自衛のために当たり障りの無い、かといって中庸ですらない最悪の行為である「事なかれ主義」を加速させ、監督官としての機能を失う。つまり、生徒がアウトプットを行う場が無くなるわけだ。もし、その場があったとしても、教官不在の教習所のようなものになるだろう。

多くの場合、学習はインプットとアウトプットが合わさって初めて形になるから、生徒達は前述のような経験も、学習も出来なくなる可能性がある。これは生徒達にとって大きな損失だ。

 

それこそ拡大解釈だと言う人もいるだろうが、僕の息子が通う公立小学校の様子や教師との会話を鑑みると、その辺の学習環境は既に破綻しているか、極めて危ういところにあるようにしか思えないのだ。

教育委員会や学校が、臭いものに蓋をするうような対応で済まそうとせず、この騒ぎが何だったのかを明らかにし、せめて生徒と共に事例検討を行うところまでいけばいいのだが・・・無理か。