初代ゴジラの緊迫感と恐怖がスクリーンから溢れだす!シンゴジラは往年の怪獣映画ファンにおススメだ!
僕が初めて初代ゴジラをビデオで見たのは、おそらく小学校1年あたり。初代の公開が1954年だから、それから約40年とちょっと後に見た事になる。
そのころの僕は、早朝に放映していたウルトラマンシリーズの再放送を中心に、新旧の仮面ライダーシリーズとメタルヒーローシリーズ、ゴジラのVSシリーズなどの特撮を好んで見ていた。
そんな中、幼少の僕は初代ゴジラを見た。見てしまったのだ。
初めて見るモノクロ映画・・・初代ゴジラは恐ろしかった。逃げ惑う人々と絶望する子供の表情、ゴジラに襲われながらも最後まで実況を続けたテレビクルーの絶叫、戦う者たちの緊迫感、オキシジェンデストロイヤーをめぐる芹沢博士の葛藤と決意。それら全てがモノクロ独特のコントラストと、やや粗い映像によってブーストされ、画面から溢れだして僕を包み込む。
当然、それはゴジラに関しても同様の効果をもたらした。どこを見ているのか分からない丸く見開かれた目、かすれた咆哮、巨大な肢体と圧倒的な力はもちろん、技術面の問題による緩慢な動きさえ、おどろおどろしさと、押し潰されるような黒い存在感に変換される。そして、ゴジラは恐怖の権化となった。
僕は、怪獣映画の醍醐味は「埃っぽさ」「緊迫感」「おどろおどろしさ」にあると思っている。
最近の怪獣映画に登場する怪獣は良く動く。それはもうヌルヌルと、ダイナミックに「怪獣」の名の通り人知を超えた「何か」が美しい画面で動き回る。それはそれで大迫力で素晴らしいのだけど、どうにも怪獣のアクションと、美麗な映像に重きを置きすぎて「おどろおどろしさ」の表現が蔑ろにされているように感じる。これについては「貞子」と「サマラ・モーガン」の様な、お国柄の差もあるのだろう。でも、怪獣映画における恐怖や畏れは、派手な演出によるものばかりでは無いはずだ。
「埃っぽさ」「緊迫感」は登場人物によるところが大きい。正体不明の怪獣が街を荒らしているというのに、主人公的人物が恋愛しちゃったり、友情ごっこをするのは良くない。また、被害に会うその他大勢の人々を単なるエキストラとして映してはいけない。彼らは日常と非日常の境界を浮き彫りにし、映画の空気を作り出す重要な役なのだ。
だから、主人公的人物と対策チームは脇目を振らずに全力で事に当たらねばならないし、住民は心の底から絶望し、全力で日常にしがみ付き、全力で逃げ、時に我々をイラつかせ、時に我々をホッとさせなくてはならない。そうして初めて緊迫感が生まれる。
そう、怪獣映画はドキュメンタリー映画でもあるのだ。
相変わらず何を言いたいのか分からない、どうでもイイ前置きが長くなった。
さて、昨日シン・ゴジラを見た。
素晴らしかった。「埃っぽさ」「緊迫感」「おどろおどろしさ」の全てが詰まっていた。過去のゴジラ作品、特に昭和ゴジラに代表される昔の特撮が持つ独特の雰囲気や、初代ゴジラが好きな人には凄まじくおススメだ。最近の怪獣映画に欠けていたものが、シン・ゴジラには詰まっている。
しかも、シン・ゴジラに登場するゴジラは、国産から米国産まで、過去のゴジラ像をブチ壊したくせに、ゴジラという存在自体は原点回帰させるという離れ業をやってのけた!素晴らしい!
ああそうだ、初代ゴジラを見てから、シン・ゴジラを見れば楽しさは倍増するはずだよ。
・・・何故かって?本作のキーワードでもある「進化」を感じられるからさ!
今朝の早朝4時から初代を見直している。そして今日、もう一度シン・ゴジラ見に行く。
放射能火炎で東京を壊滅させるシーンは何度見てもゾクゾクするだろうな・・・
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